「専門バカ」-0436-

 金曜日の僕は、半日の研究日をもらっているのです。大学の外にいる医者たちは、こうした「研究日」という勤務病院フリーの日を認められていることが多く、大学の外来に出ていたり、研究室に出入りしていたり、様々に使っているようです。僕も名目上、金曜日の午前中という時間を研究日として認められたのですが、下っ端の哀しさで、上の医者の都合でその時間はどうにでもなってしまいます。研究日として認められている日も、僕がやる検査が待っていることが多いので、実際は午前中のうちに病院へ出勤します。実際にその時間を使って大学に行くのは難しくて、日曜日などの空いた時間をついて大学にカルテを漁りにいったりすることはありますが、金曜の研究日は、いつもより数時間遅く家を出られるというくらいです。それでもじゅうぶん嬉しい時間ですが。

 上司たちが大学の手術へ出かけたり、学会などで病院を開ければ、金曜日の朝も、僕の仕事は、人間ドックの外科診察から始まります。乳腺、甲状腺、直腸診を行い、大学からパートで来ているひとつ下の後輩研修医と回診にまわり、指示出したり、ガーゼかえたり、点滴刺したり、バタバタしていればあっという間にお昼になってしまいます。僕の勤務する病院では、主治医制をとらず、4人の医師のグループ制をとっているので、外科の入院患者は全部が僕の受け持ちです。ちょっとひとまわりするといっても1時間や2時間はかかってしまうし、あとに詰まった検査や手術の予定によっては、ゆっくり話す時間がとれないこともあるのです。

 これは僕がこの病院に来てからずっと気にかかっていることです。グループ制というのは、医師の相互チェックが働くという利点が、責任が曖昧になるという欠点にも繋がってしまいます。上の3人の医師たちは、疾患のとらえ方、治療の考え方は、当然それぞれ違うわけですが、どうもこのバタバタした回診や検査の中では、意見の統一がはかれないことが多いようにも思えます。同じ患者さんに対して、僕からみれば全員が大先輩の3人の医師が、それぞれ違うことを要求することも多々あるわけで、きっと大学にいたときの僕なら、その矛盾を正面切って切り返していたのだと思うのです。

 指導医だって人間だし、同じことを報告するにしても、意見を伺うにしてもうまいアプローチがあるはずだと、大学時代、電話の前で憤慨する僕に向かって呟いた先輩医師がいたのです。ワビサビが大事なんだ、と。病棟をうまく動かすためには、明らかにおかしいようなことでも、飲み込んで処理しなくてはならないことも多いようです。下っ端が悪者になるのは、トラブルを終焉させる良い方法だ、とも言われたものでした。この辺は消化し切れていないのですが、日々、僕なりの筋を通しながら、頑張っているつもりです。

 午後は田圃の中を病院のワゴン車に揺られ、地域の乳腺・甲状腺検診へ出かけました。乳腺・甲状腺について、自分で気になるところはないかどうか問うても、咳が出るとか、手がしびれるとか、関係ないことを言い出す人も多いのですが、彼女らにしてみれば、田舎に医者がやってくる数少ない機会であり、目の前にいるのは紛れもなく医者なのだから、関係ないことはないのだろうとも思うのでした。

 夕方病院に戻ってから、今日は鼠径ヘルニア(俗に脱腸)の手術が一件。金曜日は麻酔科医はやってこないので、僕が自ら、半ば独学の腰椎麻酔を、もちろん先輩医師の監督のもと施し、教科書の絵を思い浮かべながら、僕が自ら、その手術の執刀を、もちろん先輩医師の監督のもと施すのです。

 腰椎麻酔下、仰臥位にて、右鼠径部におよそ5cmの皮切をおく。鋭的、鈍的に切離をすすめ、浅腹筋膜、外腹斜筋腱膜をそれぞれ切開す。なんかいろいろあって、手術を終了す。

 大きな手術で総動員の時には、場合によって並列手術を行い、胃癌の手術が先輩医師と二人っきりということもあるのです。冷や汗かきながら執刀医に対して前立ちと呼ばれる第一助手にして唯一の助手をつとめるのです。そんなときは最初から最後までいっぱいいっぱいですが、最近は、ヘルニアとか虫垂炎の手術を執刀させてもらった時には、なんとなく自分で何かをやったという気持ちになれるようになってきました。もちろん、まだまだ操り人形のように動いているのでしょうが。

 その後途中まで当直代行をすることになりました。この病院よりもさらに一時間くらい山のほうへ行った温泉地の診療所から、ヘルニア嵌頓の触れ込みで紹介されて来た患者さんは、どうやら精巣上体炎のような感じで、少なくともヘルニアは無い様子。バイク事故でやって来た男性は、レントゲン上骨折が疑われたのでした。カルテに「右手第5中手骨」とか書きながら、手の骨の名前が本当にあっているのかどうか気になって、あとでこっそり解剖の教科書で確かめておきました。あとはなんだか分からないけど救急車で来てしまった人もいました。どうも常習犯らしいのですが、先入観だけで疾患を見落としたら医療ミスになってしまうのが辛いところです。

 乳腺の診察中に喘息の相談されれば、それに対応すべきなのだと思うし、見当違いの紹介状だって人ごとだと笑えないし、骨の名前を間違って整形外科宛に紹介状を書けないし、道端で情報無く倒れている人だって診療しなくちゃいけないのです