「組長、来院?」-0467-

 たまに困った人もやって来るのだけれど、露骨に追い出したりも出来ないのが病院という場所なのです。

 夕方、「救急車で足の痛い人が運ばれてくるらしいから、ちょっと診ておいてくれ」と、僕のボスから院内PHSでコールがあったのでした。「…ちょっと酔っぱらってるらしいけど」という最後の台詞がなんとも引っかかるのでしたが、最近、僕の悪い予感はだいたいそのまま当たるんですよ。

 病棟で他の患者さんを診ていたのだけれど、救急車の音をはっきりと聴いたので、僕は救急外来へ向かったのでした。いつもなら、向かう途中くらいのタイミングでPHSが鳴るのだけれど、今日はどうしたことか鳴らないので、僕が受けたのとは別の救急車なのかと思いながら、救急外来へ入っていこうとすると、なんだかもめているような大声がきかれるのです。ドアの隙間からそっと顔を覗かせて、看護婦(今は看護師といいますが)さんたちに目で訴えかけると、なんだか制止されたようなので、その患者さんがいるのとは別の診察室へ身をひそめて、様子を伺うのでした。

 看護婦さんの声とか救急隊員の声を遮って、「なんでこんなとこに連れて来やがったんだ、俺は頼んでねえ」とか大声をあげる鬱陶しい酔っぱらいは、この時点で診療を望んでいないのであって、特に命に別状のある様子でも無い以上、まだ僕が登場する時では無さそうでした。

 かつて、薬物中毒などを割りと積極的に受け入れている病院にパートで当直してた頃、「先生、間違ってブラックリスト患者受け入れてしまいました」なんていうどうしようもない電話をもらったことがあります。ペンタジン中毒、痛み止め注射を中毒的に要求するその患者は、言うとおりにしないとそうとう暴力的になるのだそうです。来てしまった患者を拒むわけにもいかず、診察をするに当たって、外来の看護婦さんが、「先生、名前覚えられないように、名札はずしておいたほうがいいですよ」なんて言うのでした。買わなくていい恨みはご遠慮したいし、回避できる手段は講じておきたいのです。一般に、医者、警察、司法関係者は、電話帳にも電話番号を載せていないことが多いのです。

 今回も無意識に名札をはずしてポケットに入れて、事務とかそういうレベルで、まずこの人を僕が診るのかどうか話をしてもらうのでしたが、泥酔したその男は、全く話の筋が通らず、時に、「俺は山口組の組長だぞ、俺を知ってるだろ」とがなるのです。当直婦長(師長)さんは、どうもこの男がたいそう昔にやっぱりたいそう酔っぱらって病院に来たことを知っているのだと言うのです。結局警察がその無一文の男を家まで送っていったのだとかいうのですが、事態は数十分も停滞したままで、まだ診療開始という場所に到達しないのでした。

 男が警察を呼べとかなんとか叫んでいて、結局病院は警察に連絡をして警察官が現れて、なんだかんだ言っているうちに、ようやくこの男の身元が分かり、とりあえずカルテをつくれる状態にはなったわけですが、診療の依頼は受けてません。紆余曲折あって、診て欲しいだの診て欲しくないだの、レントゲンを撮るだの撮らないだの大騒ぎした上で、骨折無きことを確認し、湿布して、弾力包帯巻くまでに、二時間近く使っているのでした。

 警察はなんだかんだ理屈をごねて、診察終了を待たずに逃げるように帰っており、この男に帰る家があるのか、手段があるのか不明なまま、やっかいごとを病院に押しつけていくのですが、歩けないといってやって来たその男は、「飲みに行く」と言い残して歩いて病院を出ていくのでした。

 そこから先、善良な市民を守るのは警察の役目だと思ったのかどうか、当直婦長は警察に「そういうわけで病院をあとにしました」と連絡したものの、僕らはみんな、その男がまた病院にやって来るような気がして仕方がなかったのです。そこらの飲み屋で困った客が来ると、店主は決まって救急車を呼ぶのです。タクシーは金の無い酔っぱらいを乗せないし、明らかな罪状がなければパトカーにも乗れません。適当な病名くっつけて貴重な田舎の救急車を、そんな男に消費するのです。

 婦長は、「もし、男が本当に飲みにいったとすれば、自動的に無銭飲食になるから、そしたら今度こそ警察に連れて行ってもらうのだ」とか言っていました。とにかく、この男のために止まった病棟の仕事に復帰してしばし働き、帰宅しようというその時、夜間唯一の出入り口である場所には、さっきの男がさっきより酔っぱらってぐでんぐでんになっていて、その男の知り合いのような謎の老人と、不運な日に当直になってしまった病院事務と、出口をふさいで何事か揉めていましたが、少なくとも医者がどうこうする問題では無さそうであって、僕はその横をくぐり抜けて去るのでした。