「僕はまだ処方してません」-0480-

 僕は一応外科医として修行中で、当直のときもおおむね外科系の患者さんを中心に診ているのですが、「外科系」という括りも大雑把で、外傷とか骨折の程度によっては、「整形外科医」を頼らなければならないし、頭部外傷もある一定を超えれば「脳神経外科医」をコールします。一応、内科の先生は毎日待機していてくれるのだけれど、外科メインの当直の日は、外科医がファーストコールで救急外来に赴き、この季節やたらと多い、風邪やインフルエンザの診療にもあたります。

 インフルエンザの治療薬として、一般人もその名を知っているくらい有名になった「タミフル」という薬が、どうも品薄らしいという話は、救急外来でインフルエンザウィルスの検査をしている最中に耳にしたのです。幸いにも、この病院には、まだいくらかの蓄えがあるらしいのですが、これからの季節、なんとも心細い限りです。効くとわかっている薬が、供給不足で使えないなんて哀しい限りです。

 その疾患を治療する術を知っているのに、物質的な理由なんかで手を出せないというのは、もしかすると、現時点で治療法が分かっていない疾患に出会ったときよりも哀しいのではないかとも思います。全地球的にみたときの、医療格差という問題はこういう哀しみを大量に生んでいるとも思うのでした。我々の身近で簡単に手に入る薬がないために、命を失ってしまう人がどれくれいいるのでしょうか。

 ちなみに、風邪とかそういうことには、おおむね内科の先生が対応してくれるので、僕が今シーズン診ている患者さんで、インフルエンザウィルスを調べた人はまだ数人、しかも、全員陰性で、まだタミフル処方してません。品薄には荷担してません。いまや超貴重な薬になってしまったので、たんなる高熱とかで、インフルエンザ見込み処方は避けたいところです。

 金曜もなんやかんやと寝られない当直をし、土曜回診したり、救急患者入院させたりしてました。一端帰宅するも、病棟で何人かの熱発(発熱)患者を抱えているので、再度病棟を訪れ、データや症状にあわせて指示の出し直し。ある程度落ち着いたところで、土曜の夜は、雪道にうんざりしながらも、連絡をもらっていた、大学のジャズ研の引退ライブへ顔を出しました。今年は割と、大学に残る人が多いし、僕も4月にはおそらく大学に戻ることを考えると、寧ろ顔を会わせる機会が増えるのかも知れませんが、最後は最後、誘ってくれるうちはなるべく参加しておきたいと思ったのです。

 夜、何度か病棟の状態の報告が携帯電話にあったので、いくつか指示を出しました。打ち上げは延々と続きそうでしたが、なんとなく病棟も気になったので、適当に切り上げ、高い代行代金を払っても、病院に戻ろうかと思っていた矢先でした。病棟の看護師が、たまたま当直でいた師長に、僕が何度か連絡をもらっていた熱発の患者のことを報告したのだそうです。病院の番号がうつしだされた携帯電話に出たとたん、「先生、家にいないんですね、ご機嫌ですね」といきなり感じの悪い電話が入るのです。あげく、その電話は、やりとりの最中に「もういいです」と一方的に切れてしまいました。気まぐれに病棟を訪れて、気まぐれにかけてきたのか、要領を得ないだけならまだしも、全く持って礼を失した電話にはこの上ない怒りを覚えました。

 すぐ折り返し病院に連絡を入れると、別の看護師が出たので、状況を確認すると、さっき僕が連絡をもらったのと同じ状態で、とにかく、今はその指示を行ってほしいということ、これから帰るところだから、一度病棟に行くつもりだということを告げたのです。24時間患者にはり付いた場所にいてほしいという気持ちは分かるし、僕も許す限りそうしているつもりです。病状の悪化を無視したつもりは無いし、その都度僕なりの判断をしています。

 もちろん僕の指示が常に完璧であるわけでは無いし、見落としもあるだろうが、それは人間の能力という問題で、医療ミスということと同一ではないはずです。状況にあわせて、僕はしばしば夜中の病棟を訪れるし、時には内科の当直医に判断を仰ぎます。完全に納得しているわけではないけれど、外科の全ての入院患者と救急患者の出現の際には、下っ端の僕がファーストコールで、その呪縛は24時間付きまとうのです。すなわち僕には完全な自由時間というものは与えられていないわけで、携帯電話に縛られながら、しかし僕は僕で僕の生活をしているだけなのです。大学にだって行きます。酒だって呑みます。

 僕が重症患者を無視して遊んでいたというならば、もし責められても仕方が無いのですが、病院が僕を探した時に、僕がたまたま病院の近くにいなかったという理由で、責められるいわれはありません。しかも、僕は、病院から少し離れた際にも、必ず足を確保しているのです。電話の音が死ぬほど怖いけれど、電話を常に身につけ、名ばかりの休日を与えられても、自由に出かけることもできないという人の気持ちを、少しは分かってほしいと思うのです。

 そういうことがあったあとは、もの凄い疲れが僕を襲って、悪夢を伴った長い眠りに誘うのです。疲れがとれたのかとれなかったのか。終わり行く日曜日はとても寂しくて、月曜日が怖いのです。唯一の慰めは、どうやら僕の出した指示で、昨日の患者さんたちの状態は落ち着いているということなのです。