医療ミスということ

 医療者とそれ以外の人々との意見の乖離のおおもとに、「医療に絶対の正解はないということ」への無理解があると思います。病気が治らなかったり、死んでしまった背景には、必ずミスがあると思いこんでいるのではないでしょうか。壊れた機械が直らなかったのは、正しく修理しなかったからかも知れませんが、どんな治療をしても、治らない場合もあるし、死ぬ場合があります。それが生き物というものです。僕ら医療者は、これを当然だと思っていますが、この当然の前提が歪んでいれば、そもそもお話になりません。
 ある病態に対して、ある程度「妥当」な医療というものはありますが、これをやれば絶対に正解ということはありません。あとで振り返って、より妥当な医療があったと振り返ることはできますが、その当時に、より妥当な医療を選べなかったのは「ミス」という言葉はふさわしくないと思います。絶対的な正解がない限り、医師は良心と持てる知識と技術に従って、場合によってはそれを説明して選択してもらいながら、病気を治そうと努力するしかありません。後から振り返って、「より妥当な方法があった」とか、「もっと熟練した医師が治療にあたれば」ということは簡単ですが、それをその当時に実践するのは難しいことがほとんどです。また、医師の未熟さの線引きをどこにするかも難しい問題です。トップクラスの医師の治療を標準としてしまえば、それ以外の医師は治療に当たれません。その環境下で、医師として妥当な行為を行ってなお、不幸な転帰を迎えたとき、「もっと熟練した医師に診せなかったのが悪い」ということも、気持ちは分かりますが、罪に問われることではないように思います。待機的に治療できるものであれば、そうした専門医へ紹介という手段をとるでしょうけれど、救急の場ではそうした時間的余裕がないことがほとんどです。それでもなお、「専門医に、あるいは上級医に委ねるべきだった」という声が過剰に大きくなれば、自分の専門外はそもそも分かりませんので診られません、という話になってきます。すべての領域において完璧な医療を行える医者はマンガの中にしか存在しないのですから。また、緊急性などの判断すらも、専門医以外には難しい場合もあります。痛みに乏しい虫垂炎を見逃したとか、意識障害神経症状の出ていない脳出血を見逃したとかいうのも、あくまで結果論です。全部の患者に全部の検査を施行するわけにはいかないのであり、症状から妥当と思われる検査を行っていくのです。そして、症状の変化に応じて再度検査や治療を検討するのであり、診察室の椅子に座れば、勝手に病名をつけてもらえると思われても困るのです。実際に、泣いている子供を連れてきて、「泣いてるから検査しろ」みたいなことを言う親というのが少なからずいます。「どういう状況ですか? どこかにぶつけて痛いとか、お腹を壊したとか?」なんて尋ねると、「ぐだぐだ言ってないで、医者なんだからさっさと診察しろ」と怒りだす始末です。問診という大切な診察を行っているのですけれど、これを理解してくれない人は非常に多いのです。医者は占い師ではありませんから、「診たらピタリと当たる」ってことではないのです。
 さて、仮に最も妥当な医療というのが存在したとして、ある病態にその「最も妥当な医療」を行えば、その病気が完全に治せるかというとそうとは限りません。結果として、良くなったり、悪くなったり、最悪死ぬこともあるでしょう。死亡率1%の疾患というのは、100人いれば1人は死ぬ病気であり、これを0にすることは難しいのです。「99%助かる病気で死んでしまったのは、ミスがあったからだ」と思いたい気持ちもわかりますが、どうしてもその1%は避けられないものです。
 また、そもそも、人間が行う限り、ミスは必ず起こります。医療行為におけるミスは、人の生命に関わることですから、避けなくてはいけないことですが、これは0にはできません。プロ野球選手がエラーをするのは、気の緩みだけの話ではないはずです。0に近づける努力はしますが、完全に0にはできません。無論、重大なミスはそれ相応の処分で応じる必要があると思いますが、刑事罰を与えるべきかどうかという点では微妙だと思います。僕はあくまで、医療は刑法以外の法律で扱うべきだと思います。また、ミスは起こるものなので、ミスが起こっても、その被害を最小限にする体制や技術がより重要です。手術の時に、血管を傷つけるというのが百歩譲って「ミス」だとして、熟練した外科医は、的確に出血点を探し、止血する技を持っています。何もトラブルの起こらない麻酔や手術は、ある程度経験を積めば比較的容易ですが、起こるであろうトラブルに対処できるというところで、熟練者が重要になってくるのです。
 また、よく「医者は患者の気持ちを考えたことがないのか? 自分や自分の身内が同じように死亡したら怒るだろう!」ということが言われますが、これには強く反論しておきます。もちろん、悪質な行為が行われたり、実際に何が起こったのかを伝えられないでうやむやにされれば、しかるべき手段で担当医の責任を追及するでしょう。ただし、仮に僕の身内が、妥当と思われる医療を提供されながら亡くなってしまったとしても、担当医の「ミス」を追求できないと思います。これは、逆に同じ医者だからこそ、与えられた環境でおおむねやるべきことをやってくれたということが理解できるからです。非常に哀しいことだとは思いますが、その死という結果が、担当医のせいだとは思えません。かといって、おおむね安全に行える手術において、稀なケースにあたり、重大な障害を負ったり、命を失ってしまえば、それを補償してもらう必要はでてきます。お見舞いであり、生活保障。現在では、病院や医師と示談するか、民事で争うしか方法がありませんが、これはあくまで「過失」が前提にあります。過失の有無に関わらず一定の割合で不幸な転帰をたどる人がいる以上、こういったシステムは妥当ではありません。早期に、「無過失補償制度」の導入が必要と考えます。障害の重さに比例した補償を求めるために、障害の重さを過失の重さと重ねてしまいがちなのではないでしょうか。多くの場合、過失と障害はあくまで違う問題なのです。
 医師自身の心の問題として、自分が関わった患者さんの死は、過失の有無に関わらず、少なからず心に影を落とすものです。医者は多くの死に立ち会いますが、その都度影を背負い、不幸な死を少しでも減らし、医療に貢献しようという思いを新たにしようと心がけるのですが、そこに不当な刑事罰や、いわれのないバッシングが介入すれば、モチベーションが下がっていくのはあたりまえの話なのです。