落雷を予見せよ

<落雷裁判>「予見可能」と高松高裁に差し戻し判決 最高裁
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060313-00000036-mai-soci

 96年に高校サッカーの試合中、落雷を受け重度の障害を負った当時私立高校1年と家族が、学校や主催者側に約3億円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(中川了滋裁判長)は13日、請求を棄却した1、2審判決を破棄し、審理を高松高裁に差し戻した。
 判決は「落雷事故は予見可能だった」と述べた。高裁で事故が回避出来たかが審理されるが、北村さん側逆転勝訴の可能性が出てきた。
 落雷事故を予見可能とした最高裁判決は初めて。学校関係者や屋外でのイベント主催者に警鐘を鳴らす判決となった。

 ◇教師や学校側の責任重く…生徒の安全守る立場重視
 落雷事故を巡る13日の最高裁判決は、生徒の安全を守るべき立場にある教師や学校側の責任を重く見たものといえる。
 落雷を巡っては、ゴルフ場では危険と判断された場合、プレー中止の措置をとることが常識だ。しかし、裁判では00年、東京地裁が「雷鳴が識別できれば危険な状況」と認めながらも「予測は極めて困難」と遺族の請求を棄却していた。
 これに対し、最高裁が「事故は予見可能」とした背景には、仮に特定の生徒に落雷が直撃することを予見出来ない場合でも、生徒全員の安全を守るために教師は最善の注意を尽くすべきとの考えがあるとみられる。「自己責任」のゴルファーと異なり、生徒は教師に従わざるを得ないからだ。
 課外活動などでの学校側の責任について最高裁は90年、専門学校の山岳部の雪崩事故を巡る訴訟で「教育活動の一環である以上、教師は生じる恐れのある危険から生徒を保護すべき義務を負っている」と判断、教師側の過失を認めた。今回の判決はこの判例の立場を踏襲したものと言える。

 障害を受けた方が補償を求める気持ちはわかります。ただ、やはり、この自然災害を予知すべきであり、学校に責任ありという方向性はおかしい気がします。もちろん、「雷鳴が識別できれば危険な状況」という知識は広く知られていたかも知れませんが、実際に自分が落雷の被害にあう確率はどれくらいなのでしょうか。雷鳴をきけば、落雷の可能性は常にあるわけですので、この理論で管理者責任を問うならば、雷がなれば外出禁止ということになるのではないでしょうか。実際に、試合会場にいた人間のどれくらいが落雷の危険を予見していたのか、裁判所曰く、「子供向けの絵本にものっているくらいよく知られた知識」に基づいて、実際に試合に参加していた高校生らも含め、「雷が落ちるかも知れないから避難すべきだ」と考えていた人間はどれくらいいたのでしょうか。
 裁判所は、「子供向けの絵本にものっている」という根拠を持ち出したのだから、当然、高校生ともなれば、その知識を持ち、きちんと判断できる能力を有するはずです。その彼らが、危険を感じ、避難を求めているのに、学校側が試合を強行したというのであれば、管理の責任も問われるでしょうけれど、今回の件は行き過ぎた判断のように思えます。
 医療訴訟にも通じますが、「被害者の心情に配慮する」というところまでは理解できます。ただ、それを誰かの責任とするということに強い疑問を感じます。報道された情報から判断する限り、おおむね常識的な天候下で試合が行われており、そこに不幸にも落雷があったというようにしか思えません。被害にあった方は救われるべきですが、これは、管理者に過失があったから、という話ではないように思えます。
 医療事故にしても、こういった事故にしても、誰かの過失にしないと補償がなされないという部分に、とても大きな問題があると考えます。医療においては過失の有無に関わらず、障害の大きさによって補償される「無過失補償制度」の開始が急務だと思いますし、落雷のような避けがたい自然災害によって被害を受けた方に対する、誰かの責任の有無を問わない何らかの補償制度をつくるべきだと思います。そして、誰かを憎み、責任を追及し、長い裁判を闘わなくても補償が受けられるようにするべきだと思います。
 もちろん、責任を追及されるべき事例に関しては、法の場で真実を明らかにすることは大切だと思います。しかし、きちんとした補償制度の整備をするだけでも、悪意のない些細な過失が結果の重大性のみによって争われたり、そもそも過失とは考えにくい不可避のものまで責任を追及されるという歪んだ流れは改善されるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。