24時間営業

 そもそも、24時間営業という不自然な形態が、ここまで蔓延ってしまっているのが元凶なのだと思うのです。

 コンビニエンスストアに代表される24時間営業店舗の普及は、一見、生活を便利にし、豊かにしました。少なくとも、大多数の国民はそれを微塵も疑わず、嬉々としてその恩恵を受けているのです。しかし、それは本当に便利で豊かな生活なのでしょうか?

 時間を気にせずあらゆる流通物を手に入れられるということは、確かに便利です。僕自身も、深夜のコンビニをよく利用しています。特に研修医時代など、陽のあたる時間に病院の外に出ることなどほとんどなく、さらには一人暮らしであったために、コンビニが唯一のライフラインとなる場合も多かったのです。

 しかし、自分がそうして寝る間も削って働いているような環境におかれているからこそ、24時間営業店舗の不自然さというのをより強く感じるようにもなったのです。24時間営業のために、地球環境や、労働者の健康を大いに損なっているということを考えてみるべきだと思います。

 24時間営業という非人間的な、しかし社会にありふれた光景は、人々から我慢することを、そして健康を奪いました。引きこもりと呼ばれる人間からは、社会との接点を奪ったように思います。昼夜のわからない生活をしながら、機械的に24時間あらゆる物が売られるコンビニで、いつでも何でも手に入れることができるようになったことで、社会は社会の中に孤島をつくり、孤児を押し込んでいます。

 コンビニが当たり前になったことで、当然別の分野も昼夜問わず動き出します。大型店舗も深夜営業、24時間営業を行い、あらゆるサービス業がそれを追いかけていきます。僕らはそうして、24時間あらゆるサービスを受けられるような錯覚に陥らされたのと引き換えに、非人間的な時間にも働かなくてはならなくなったのです。

 24時間という非人間的な時間に慣れた僕らは、その非人間的な日常に鈍感になってしまいました。そうして、異常が日常になってしまいます。僕らは24時間、我慢せずにいつでも何でも手に入れられるというような少しの利便性のために、夜を夜として過ごすことを奪われてしまいました。正常な思考と正常な生活を奪われた奴隷になってしまったのです。

 おそらくごく一部の資産家がより裕福になるために、若者たちは今日も24時間働き続けています。子どもたちもまた、便利な奴隷になるために、今日も「異常」に慣れる訓練をかかしません。本当に、これが僕らが望んだ豊かな社会なのでしょうか?

 本来夜は寝る時間であるけれども、その時間に生じてしまう不都合に対して、交代で不自然な時間にも働いていたのが、医療職であるとか、警察であるとか、そういう人たちです。でも、社会があまりにも昼夜の別を無くしてしまったから、たとえば救急外来が大変なことになってしまうのです。コンビニのレジ係のシフト表を埋めるように、深夜の病院に医師を配置していくような余裕は到底無いのです。

 ほとんどの病院が平日の昼間のみの診療で、「コンビニ受診」批判も無いだろう、というようなことは、医者の側からも言われることですが、僕は病院のそうした体制は仕方の無いことだと思うのです。コンビニやスーパーよりも先に、病院の本来の意味での24時間営業を目指すべきなんだろうけれども、そもそも社会が24時間営業という非人間的な日常を捨てれば、夜間の急患自体が大幅に減るだろうと思います。深夜に子どもがヤケドをするのは、「子どもは寝る時間」に起きているからに他なりません。そうして、皆が自然な生活をした上でなお、夜間に発生してしまう急患に対応するだけなら、医者がここまで疲弊しまいと思うのです。

 そうしてこれは、医療に限った話でも、「時間」に限った話でもありません。こうして我慢を忘れ、異常と正常の区別をつけられなくなった人間が増え続け、社会生活を維持するための常識が決壊しているように思うのです。