教育の機会均等

 かなり前になりますが、義務教育の内容を削ることへの不満について綴ったことがありました。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060529#p1

 読売新聞社の「教育」に関する全国世論調査(面接方式)で、親の経済力の差によって子供の学力格差も広がっていると感じている人が75%に上った。
 格差社会の拡大が指摘されているが、所得の格差が教育環境を左右し、子供の学力格差につながっているとの意識を多くの人が持っていることが分かった。

 一昔前なら笑い飛ばしていたかも知れない記事ですが、ゆとり教育といって正課を削ってしまった今となっては、所得格差が教育へ及ぼす影響も大きいのだろうな、と思います。塾などへ通う経済的ゆとりのある家庭だけが、学校で教えなくなってしまった範囲まで学ぶことができるという部分はあると思います。

 学校の教科書に必要十分な内容が含まれていれば、個人の努力でどうにでもなったと思うのです。もちろん、ゆとり教育以前も、発展的内容を塾で教えることがあったかも知れませんが、現在ゆとり教育で削ってしまった部分は、結局大学教育を受けるまでには学んでおかなくてはいけない内容であり、それを公立校で教えなくなってしまったということが問題だと思うのです。

 現在、国は、教育関係者のOBなどを動員して、「公立塾」の設置を考えているとのことです。公立の塾自体はあってもいいと思いますが、僕はあくまで教育は学校で完結できる体制を整えるべきだと思います。その上で、塾を選ぶ自由があってもいいとは思いますが、あくまで、学校の教科書を完璧にしておけば良いという前提があるべきだと思います。それこそが教育の機会均等であると思います。

 正課を削って、「自由な時間を与えた」といいながら、その時間に半ば塾通いを強制するというのはナンセンスだと思います。

 あくまで、僕の思うところは、「経済的理由によって教育の機会が奪われるということが無いようにすべきだ」ということだけであって、私学批判や塾批判ということではありません。ただ、経済的理由から公立の学校しか選べないような人がいるということは、少なくとも制度をつくる人間は、当然熟知しているべき事柄だと思うのです。私立の学校や塾という補助的学習機関に、公立では真似のできないような、素晴らしい点があるのは理解します。しかしながら、塾や私学へ通える経済的余裕のある子弟以外が、高等教育を受けるための入学資格を得る段階の競争に、真っ当に加われないということであれば、確実に国は衰退します。そのためには、まず、国の定める教科書がきちんとしたものでなくてはいけないし、その内容が十分でなくてはなりません。詰め込み学習でついてこられない人がいるから、というのは正課を削る何の理由にもならないのです。その段階に学ぶべき事項、次の段階学校へ進学する機会を得られるだけの事項は、あくまで正課で教授するべきことだと思っています。
 さて、前述のエントリでは、どこをどう曲解したらそんな解釈になるのか分かりませんが、ネット上の某所では「『立派になった自分』を根拠にして、公立高の教育で良いと言っている」などと言って絡んでいる人がいました。私学を選べる方々が、様々な選択枝の中で、素晴らしい私立校へ進むことができたのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思いますが、それはかなり恵まれた環境であり、必ずしも全ての人が、自分の能力ということだけでは選択できないものであるということを考えられるくらいの想像力は欲しいと思うのです。
 中には、勤労学生のように、自ら大変な仕事をしながら、学を修めるという尊敬すべき方々もおられますが、やはり大抵の場合において、学校に通うということは、親の庇護下にないとなかなか難しいものです。かといって、全ての親が我が子を充分に庇護できるわけではありません。それでもなお、義務教育に始まる公的な教育によって、学ぶ意志があり優秀な人間に対して、継続的な教育の場が与えられなくてはなりません。
 ワーキングプアネットカフェ難民といった貧困層に対し、主に新聞の投書欄などで、「社会制度が悪いというが、そもそもは当人たちの努力が足りなかった結果だ」と切り捨てている世代があります。偏見に基づいて表現すれば、それは、「今よりは貧しい社会だったけれど、とりあえずは仕事があり、苦労を厭わずまじめに働いてさえいれば、贅沢ではなくとも生きてはいけた」という時代のお話しだと思います。
 正直、僕も少し前まで、少なからず「貧困層に甘んじているのは、総じて当人たちの責任」といった印象があったことは確かです。実際に、努力が足りなかったという人もいるかもしれません。しかし「効率化」のはざまで、高い人件費のために正職員が削られ、使い捨てのように派遣社員をまわすというこの社会で、果たして貧しいままであるのは、当人たちのせいだけなのでしょうか。
 そして、確実に貧困の連鎖が起きているのです。社会制度のはざまで、弱者という名の強者が、うまいこと様々な補助を受けてそれなりの生活を受けている一方で、マジメに働く意志や教育を受けようという希望がありながら「健康で文化的な最低限度」に満たない生活を強いられるケースが多々あると思います。
 例えば、教育を受けるという機会が、両親の経済力にほぼ依存してしまうことになれば、サイクルがそこで閉じてしまいます。高等教育を受けられ、資本主義社会の資本を担うことのできる人間が、その子をまた学校に入れるという階級の形成。貧困のサイクルから、例えば教育という方法でステップアップする可能性がなくなれば、その階級は確立し、完全な階級としての隔絶が生まれ、貧困のサイクルから抜け出せなくなれば、世襲の階級となり、子が生まれた時点で、本人の能力を無視して階級が決定されてしまいます。これは非常に恐ろしいことだと思うのです。
 さてしかしそんな中で、僕はエゴイズムの固まりでもあります。僕はとりあえず僕がある程度幸せでなければ、他者を思いやることはできないという程度の人間です。そんな中で真の「慈善」の難しさを思い、再三、一般的な使い方ではない「偽善」という言葉を使ってきました。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060115#p1

 僕は再三、慈善というものの難しさを思い、多くの人間の善行を「偽善」と表現してきました。この偽善は、決して悪い意味では無いです。僕らは、相当なエゴイズムの中に生きていて、自分の幸せを保証した上で他人に手を差し伸べていると思います。それも、そうやって手を差し伸べるという善行で、自分がすがすがしい気持ちになる喜びを得るという見返りを含めた上でのことがほとんどだと思います。真に自分のすべてをうち捨てて他人のためにという神の領域、真の慈善の領域にはなかなか達しないと思うのです。

 僕は今まで、気持ち的なものも含めて、見返りを求めているような善行しかしていないし、それを乱暴な表現かも知れませんが、僕は「偽善」と表現していたのです。そして、この世のほとんどの善行は、この基準だと「偽善」ではないのかな、と思っています。繰り返すと、この「偽善」に僕は悪い感情をこめていません。善であれば、いいのではないか、と思うのです。

 僕は幸いにも、教育の機会を奪われずに生きてこられたし、生活の糧も得ることができました。仕事に関しては、年中愚痴を吐いてはいますけれども、生活に困らない収入を得られているのも確かです。
 また、ここに詳しくは書きませんけれども、僕自身の抱える背景や、様々な事情もあり、今、少なくとも経済的に困っていない僕が、他者への援助をしなくてはならないという義務感のようなものを感じ続けています。特に、経済的理由によって、教育の機会が得られない子どもたちへの援助ということについては、天命に近い義務感を感じています。
 両親がいないことで教育が受けられないという子がいるのであれば、極端な話、養子をとってもいいと思っているくらいなのですが、誰かの人生を丸々抱えるためには、相当な覚悟や準備が必要でもあり、とりあえずは簡便な方法として、共鳴した団体への寄付ということを行っています。現在はアフリカ某国の少年への支援と、国内の就学支援に微々たる力ではありますが、参加させて頂いております。ときおり支援対象者の近況が伝わってきますが、やはりなんともいえない幸福感に包まれます。「偽善」的幸せでもいい。
 僕は日々病院で働いています。生と死が行き交う場所であり、昨今は社会や警察の目も厳しく光る場所。いろんなもやもやを抱えながらも、診療に従事し続けながら、閉じかけてしまった世界の外へ、僕の微々たる「偽善」たる善を送り出している、こうしたことが、僕の大きな心の支えになっているのです。