この世でいちばん大事な「カネ」の話

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

 非常に感銘を受けたこの本の感想文に代えて。
 僕の母親は、幼い僕に「やたらと人前でカネ、カネ言うのは、はしたないことだ」と言いました。それは、金の話ということ自体がはしたないということではなく、まだ自ら金を稼ぐ力もないくせに、他人様の前でやたらとお金の話をしたがる僕への教育的指導であり、同時に「お金というのは大切なものなのだ」ということも徹底的に教育されました。母親は、実家にお金がないせいでいろいろな苦労をした人でした。
 僕の父親の実家も裕福ではない小さな農家でしたが、父の姉弟が言うには、僕の父は長男と言うことで、家族の中では別格の扱いだったということです。そのせいなのかどうか、僕の父はお金の計算のできない人でした。酒を飲んで暴れるとか、ギャンブルに狂うということは無かったものの、見栄をはったり、よくわからないことにお金を使ってしまう癖もあって、また、家の中では常にイライラしていて、時に理不尽な体罰を受けることもありました。彼も同様に「子供が金の話なんてするんじゃない」なんて僕ら幼い兄弟を怒鳴りつけたことがありましたが、母親のそれとは、だいぶ意味が違っていたような気がします。
 ですから僕の母は、僕の父であるところの、夫においても苦労をしていたようです。正直、僕は自分の家が貧しいと思ったことはなかったのですが、今から振り返ると、父親が会社を辞め、母の両親の六畳二間の市営住宅に一家四人で身を寄せたあの頃は、経済的に相当逼迫していたのではないかと思います。
 小学生くらいの頃には、徹底的にお金の重みを教えられ、改めて、「人前で無駄に」お金の話題を出すことをはしたないことだと強調されました。また、友達同士の金の貸し借りも、人間関係を壊すもとだから絶対にしてはいけないと教えられました。どうしても貸すくらいなら、奢ってあげなさい、と。学校で自宅に電話するために担任の先生に十円硬貨を借りたときも、必ず翌日には返すように厳しく言われました。ほんの十円と思ってはいけない、そうしたつまらないと思えるような金額でも、借りたものを返さないということは徹底的に自分の評価を下げるものだ。お金の貸し借りというのは金額の問題でも無いのだと、本当に口を酸っぱくして繰り返し言っていたように思います。
 その教えは、僕がもう少し大人になった時点では「お金を貸すときは、あげるつもりで貸しなさい。そうでなければ、その人間関係は壊れることを覚悟しなさい」という教えに昇華していきました。実際に、大人になってからやむにやまれず貸してあげたお金が返ってこないということはそれなりにありました。しかし、幼いころからそうした心構えをしていたので、哀しい思いはありましたけれども、同時に仕方が無いのかなとも思いました。でも、なるべくならもう友人にカネを貸すという業は負いたくないですね。
 今、医師として働きながら、僕は給料の話もします。もちろん、見習いには見習いなりの分相応というものがあり、義務を果たさずに権利ばかりを主張するのは愚かなことです。しかし、労働したことに対した相応の給料というのは、僕が生きていくのに必要なものであり、大切な評価の基準です。もちろん、生きていくのにお金は全てではありません。全てでは無いけれども、必要なものです。僕は、お金で全ての幸せが手に入るとは思わないけれども、お金が無いせいで不幸にはなりたくはありません。
 医者をやっていると、よく「先生のご両親もお医者さんですか?」なんて訊かれます。経済的に裕福な家庭が、高度な教育を受けやすく、授業料の高い私学という選択枝も増え、結果的に医師の子息が医師へという流れはおきやすいのかも知れません。しかし、だからといってこうして医師になった者を批判するのは筋違いです。医師になるためには、それ相応のストレスを背負い、努力をして、試験をパスしているわけであり、それを単に経済的な格差ということで片づけてはいけません。しかし同時に、そうした環境において医師になることができた方々には、自分たちが恵まれた環境にいたのだということは知っておいて欲しいんですよね。別に僕は、貧乏から這い上がって医師になった人間の方が、裕福な環境下で医師になった人間に比べて偉いなんていうことは思いません。ただ、この世の中には連鎖してしまう貧困というのが確実に存在します。この本で触れられているようなアジアの貧しい国々に比べて、日本はまだなんとかなる部分があると思いますが、公的で安価な教育というものを保証していかないと、この連鎖は確定的なものになってしまうでしょう。

親の所得で学力に差?

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060529#p1

教育の機会均等

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20070607#p1

 あくまで、僕の思うところは、「経済的理由によって教育の機会が奪われるということが無いようにすべきだ」ということだけであって、私学批判や塾批判ということではありません。ただ、経済的理由から公立の学校しか選べないような人がいるということは、少なくとも制度をつくる人間は、当然熟知しているべき事柄だと思うのです。私立の学校や塾という補助的学習機関に、公立では真似のできないような、素晴らしい点があるのは理解します。しかしながら、塾や私学へ通える経済的余裕のある子弟以外が、高等教育を受けるための入学資格を得る段階の競争に、真っ当に加われないということであれば、確実に国は衰退します。そのためには、まず、国の定める教科書がきちんとしたものでなくてはいけないし、その内容が十分でなくてはなりません。詰め込み学習でついてこられない人がいるから、というのは正課を削る何の理由にもならないのです。その段階に学ぶべき事項、次の段階学校へ進学する機会を得られるだけの事項は、あくまで正課で教授するべきことだと思っています。

 さて、前述のエントリでは、どこをどう曲解したらそんな解釈になるのか分かりませんが、ネット上の某所では「『立派になった自分』を根拠にして、公立高の教育で良いと言っている」などと言って絡んでいる人がいました。私学を選べる方々が、様々な選択枝の中で、素晴らしい私立校へ進むことができたのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思いますが、それはかなり恵まれた環境であり、必ずしも全ての人が、自分の能力ということだけでは選択できないものであるということを考えられるくらいの想像力は欲しいと思うのです。

 この本の一節を引用します。

 人が喜んでくれる仕事っていうのは長持ちするんだよ。いくら高いお金をもらっても、そういう喜びがないと、どんな仕事であれ、なかなかつづくものじゃない。

 本のタイトルにあるように「カネ」は大事。もちろん仕事には相応のお金は支払って欲しいと思います。残念ながら、僕は理想論に燃えてボランティア医療を行っていくほどの経済的余裕はありません。僕自身の、そして両親の生活を守っていかなくてはいけません。でも、とにかく「人が喜んでくれる」っていうのは重要。しかし僕らの職場で、昨今それが非常に危ういのです。

無題

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081120#p1

飴はもらえないかもしれないけれど、少なくとも微笑みで迎えてくれるはずで、よもやムチが振るわれることなど絶対に無いと信じて行っていた仕事に、ムチどころか突然銃が突きつけられたような気分だと言えば、僕の気持ちを想像してもらえるだろうか。

「医師確保」に向けて医学生が提言(産経)

http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/nagano/081226/ngn0812260226001-n1.htm

 「長野の医療を元気にする」と題した発表では、志のある若者を呼び込む策として「県内の名医を映像にしてネット配信しては」と提案。「給料をアップして呼んだ医師は長続きしないが、情熱で呼び込んだ医師は定着するはず」と力説した。

 なんていうかさ、そういうことじゃないんですよね。情熱に「喜びと感謝」で迎えてくれるということ、そして名医でなくてもよいけれども、よい指導医に教育を受けられる環境があること、この二つが無いと若手医師は集まりません。あ、もちろん言うまでもなく、「カネ」も大事。
 とにかく、医師不足や医師偏在が数の問題だけで片づけられがちですけれども、苦にレベルで医師を育てるというもっとも重要な部分への議論が皆無なのが理解し難いのです。訴訟リスクと相まって、熟練の名医がいつまでも手技を行い、若手に出番が回ってこなければ、その技術は伝達はされず、ある時点で失われてしまいます。外科の一部の領域などは、相当衰退しちゃうんじゃないかと気をもんでいます。

選択したのか、させられたのかということ

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080407#p1

 医師がより大きな病院で働きたいと望むことの理由は、住環境よりもなによりもまず、こうした医療の指導体制を求めているこということがあるのです。よく、「若い医師を僻地に」といった声があがりますが、僻地で医師が少ない地域であるほど、熟練した医師が必要なのです。逆に、「とにかく医師を送り込めばそれでよい」と言うのであれば、それは僻地は未熟な医療に甘んじろということでもあります。