平成二十年

 バイトから帰還しました。僕にとってはこれでようやく年が明けた気がします。
 僕にとっての平成二十年は、大学院生としての締めくくりの年でした。二十年度はまだ三ヶ月も残っていますし、今年度の卒業が確定したわけではないのですが、春からはおそらく常勤の臨床医の身分に戻るということで、一つの大きな節目になります。
 社会全体で医療崩壊が論じられ、僕の周囲の環境もそれと無縁ではいられません。ただ、新臨床研修制度と、医療不信ということに医療情勢が大きく揺らがされていることは、同時にヒエラルキーの末端の僕らに選択肢を与えてくれたという一面も持っています。そういった見えない力にも後押しされていたのかも知れません。医局に対する思いや、自身の進退について、かなり率直にぶつけた年でした。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081227#p1

 僕が思ったことを割と率直になんでも言ってしまうというのは今に始まったことではありませんが、ここ数年はいろいろなことがあり、さらに過激に医局に物言う機会が増えていました。研修医の扱いとか、医局員の処遇とか、大学病院での無償労働についてとか、医局の不祥事についてであるとか、いろんなことで教授にぶつかっていった流れの中で、改めて僕は基礎研究ということにはあまり興味が持てず、大学院においても、ごくごく最低限のことしか出来ないし、やるつもりもないし、申し訳ないけれども世界レベルの研究は行えないと繰り返し伝えていました。大学で教授を目指すというようなことにも興味は無いし、あくまで臨床に関わる上で必要な範囲でのアカデミックを求めていきたいと伝えてきました。そうしたポジションが大学にふさわしくないということであれば大学を去るつもりだし、医局にふさわしくないということであれば医局を辞めることも考えているという話もしました。

 実際にいろんな方向へ進むことを考え、実際に様々な人ともコンタクトをとりました。だいぶ前に一度読んだきりなので記憶が曖昧なのですが、自身も鬱病と闘った南木佳士氏の「医学生」において、いろんなことが少しずつ蓄積していき、それが限界に達したことで鬱になってしまった医師の描写や、「知り合い」という見えない重圧によってつぶされそうになる地方の病院の医師の描写がありましたが、それは少なくない医師が経験する感覚なのではないかと思います。実際に、僕も社会からのバッシングや、救急外来での患者からの暴言などといった負の要素が、少しずつ確実に僕の中に堆積していったんだと思います。ふとした瞬間に、言いようのない疲れと、恐れと、哀しみに襲われるような感覚に陥るのです。

医学生 (文春文庫)

医学生 (文春文庫)

 そうして疲れてしまったことで、昨年の春から、外勤を相当減らしてもらいました。特に、当直というのは非常に辛い。患者が来なかったから眠れたはずだとか、ただ待機していた時間は労働時間じゃないなんて言っている人間には本当に虫酸が走るのです。
http://d.hatena.ne.jp/doctake/20081231#p1

今年は離島から本土に上陸し、都市部まで約300kmの町へ来ました。ここは週一回で週に2〜3回は軽く当番や当直があたる程度の医師数。患者が多いかと言うと決してそういうわけではないのだけれど、拘束感が強い。

医師が10人ちょっといれば、多分この拘束感は大分軽くなって、逆に外来患者や紹介される重患が多くなることで身体的拘束が大きくなるんだろうと思う。それはそれでかなり辛いことだけれど、正直その辛さって言うのは別世界のものだと思う。どちらが辛いかってことを言いたいわけじゃない。どっちも辛くて耐え難い。

ただ何か違うな・・と思って考えたことは、この辛さは今のやり方では数字に出ない。患者数とか、救急車の台数とか、そんな物は全く指標にならない。だからこれは「経験した人」にしか伝わらない。過去に同じような経験を積んだ人にはよく伝わるように思う。逆に経験がない人には相槌は打ってもらえるけれど、そこにはシンクロ感がない。多分数字に出る身体的な辛さと、アルバイトなんかで応援に行ったときの感覚がごっちゃに割り算されていている。時に安定した慢性期の管理も大変だね、なんて言われることもある。一見当たっているような感じはするけど、実は全然当たっていない。

 この数字に出ない辛さ、これは本当に経験した人にしかわからない辛さだと思います。もちろん、僕が経験してきたことなんて、id:doctakeさんの環境に比べたら本当に何でもないのですけれども。僕もかつて、周囲にまともな病院が稼働していない僻地と呼んでいいであろう地域で広い医療圏を抱え、上級医がみんな病院から離れて住む中で、何かあればすぐ呼び出され、自分一人で手術の要否などを判断しなくてはならないという環境に一年ほど身をおきました。幸いなことに、医療不信ということをほとんど感じずにすむ時代であり、地域でした。しかしそれでも、その中にいる拘束感は並のものではありませんでした。救急車や電話の音にビクビクしているうちに幻聴まで聞こえだし、良い睡眠や健康が蝕まれ始めた時期でもありました。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081120#p1

 ほとんど寝られずに、四六時中病院から呼び出されては、病棟やら救急外来やらの患者さんを診ていたあの頃、少なくとも一生懸命診療に従事したことに対して、感謝されこそすれ、恨まれたり怒られたりすることや、よもや訴えられたり、逮捕されたりすることなんて夢にも思わなかったんだ。だからこそ耐えられた。

 僕ら医者も人間だからさ、毎日のように真夜中に呼び出されたとしても、そうして眠い目をこすりながらも病院に駆けつけたことに対して、感謝の気持ちをあらわされれば悪い気はしない。体力が尽きたとしても、ちょっと自尊心をくすぐってもらったことで、気力を振り絞りながらもそれなりに気持ちよく働けた。でも「医師として当然の務め」というのは、あくまで医師が医師として自発的に抱く気持ちであって、他人から押しつけられるものではないと思うんだ。

 いつの頃からか、感謝どころか、救急外来にやって来る患者に無茶な要求をされ、あるいはいわれのない罵倒をされたりするようにもなった。昨今は、医師が駆けつけるのが当然であるというレベルを通り越して、「全ての病気は治るのが当たり前」になっているから、悪い結果は全て医者のせいになる。そんな世論の中で、とうとう、善意の医師が、殺人者呼ばわりされて逮捕されるという事件も起きた。

 眠りの尻尾を掴んだ途端にけたたましく鳴り響く電話の音とか、近所に響く救急車の音に怯えているうちに幻聴まで聴き、それでも患者さんのためと信じて、時には自分よりよっぽど元気な患者さんの診療をしていた。医師としての使命だと信じて頑張ってきたそういうことが、徹底的に否定されたような気分になったんだ。わかるだろうか。飴はもらえないかもしれないけれど、少なくとも微笑みで迎えてくれるはずで、よもやムチが振るわれることなど絶対に無いと信じて行っていた仕事に、ムチどころか突然銃が突きつけられたような気分だと言えば、僕の気持ちを想像してもらえるだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080829#p1

 福島県立大野病院で2004年、帝王切開手術を受けた女性=当時(29)=が大量出血して死亡した事故で、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた執刀医K被告(40)を無罪とした福島地裁判決について、福島地検は29日、控訴を断念すると発表した。同被告の無罪が確定する。

 9/4午前0時、控訴期限を迎え無罪判決確定しました。

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081121#p1

 東京都杉並区で99年、保育園児の杉野隼三(しゅんぞう)君(当時4歳)がのどに割りばしを刺して死亡した事故を巡り、業務上過失致死罪に問われた医師、根本英樹被告(40)の控訴審判決で、東京高裁は20日、無罪とした1審を支持し、検察側控訴を棄却した。阿部文洋裁判長は「脳の損傷を想定するのは極めて困難だった」と述べ、1審が認めた治療の落ち度を否定した。

 大野病院事件や割り箸事件で医師の無罪が確定したのは明るいニュースでした。しかし、それは僕にとっては至極当然の判決であり、そのために逮捕や拘束を受けて殺人者呼ばわりされ、無罪のために闘わなくてはならないという現状にやや絶望してもいるのです。なぜ、飴をもらってもよいかもしれない働きに対して、ムチどころか突然銃が突きつけられるのか。

 もともと、飴のためだけに働くつもりではなかったから、それはそれなりでいい。真に必要とされれば、飴が無くたって働くと思う。だけど振るわれるムチのもとでおとなしく働くことはないと思うよ。

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080307#p1

 鹿児島県警が2003年の県議選の買収無罪事件(志布志事件)などの捜査で警察庁長官表彰を受け、昨年3月に元被告12人全員の無罪が確定した後も表彰を返納していなかった問題で、県警は4日、表彰を返納したと発表した。

 県警はこれまで「功労がなかったわけではない」として、返納には難色を示していたが、県議会などからの批判を受け一転、返納を決めた。

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060417#p1

 これは、各学会や医師会から断固たる抗議声明が出ており、政治を巻き込んだ大問題となり、国会で質疑が繰り返されている事件です。再三書いてきたように、様々な情報を総合的に判断すると、逮捕も起訴も不当としか表現しようのないものです。不当とは言え、起訴されてしまった以上、これから公判が待っていますが、いずれにせよ、現在進行形で問題視されている事件です。それを「表彰」するというのはどういう神経なのでしょうか。その結果がどうであれ、大きな話題となった事件に関われば表彰されるということなのでしょうか? 凶悪事件の現行犯逮捕でもしたのであればまだしも、まだ裁判の結果も出ていないような事件に関して、「逮捕=有罪」とでも言わんばかりの暴挙です。

 鹿児島の「志布志事件」での表彰は返納されたと聞きます。その一方で、大野病院事件に対する表彰は取り消されてはいないし、とあるメーリングリストの情報によれば、県警はそれを取り消すつもりはいまだ無いようです。逮捕した人は無罪でした。それでも、逮捕という行為自体が功績だと言うのでしょうか。僕にはやはり理解できません。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080824/p1

 大野病院の事件に関してもやはり、無罪判決が出てなお、警察はその逮捕を正当なものであったとコメントし、「無罪という結果は、刑事責任を問うほどのミスは無かったというだけのこと」というような論調の報道が行われたりしています。

 繰り返し述べているように、今回の事件のきっかけとなった事故報告書をつくった人々や、警察・検察の関係者の「ミス」について処罰せよとはいいません。大切なのは、そのミスを反省し、次につなげていくことなのです。過失への処罰は、医療の現場に限らず萎縮を生むだけです。医療関係者にとってミスではなかったと思われるような症例について、「ミスをきちんと認めよ」という主張がされるよりは、今回の件は明白です。医療行為の正当性における複雑な議論よりは、「無罪」か「有罪」で結果がでる裁判において、「無罪」の人間を逮捕・起訴したということは立派にミスが証明されていると思うのですけれど、そうではないのでしょうか。また、今回の件に限らず、一刻も早く、日本にも、推定無罪の原則をふまえ、人権を侵害することのない成熟した刑事裁判のシステムを築いて欲しいと強く願います。

 また、昨年は深刻な経済危機がこれでもかというくらい表面化した時期でした。しかし、それを自分とは関係のない「マネーゲーム」の一言で片付けるのはあまりにも愚かしいとも思うのです。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081025#p1

 資本主義だとか、自由主義経済というものが最善の策とも思わないし、巨大資本の動きに翻弄されて、貧困から抜け出せない層が存在することも承知しています。しかしながら、好むと好まざるとに関わらず、この世界の大部分はそうした経済の仕組みの中で動いています。特に、資源も食料も自給できない日本人など、世界的な経済の枠組みから離れたら生きてはいけません。お金を出して何かを買ったことのある人間は、すでにそうしたシステムに依存しているのだと思います。

 我々が、日本にいながらにして世界中から輸入された食材を安価に口にしている事実は、どちらかというとマネーゲームの搾取者側だと思いますし、そうしたことは自覚すべきだと思っています。
 経済の悪化というのは、不満をため込ませるし、治安を悪化させます。また、貧困によって教育の機会が失われるようなことがあれば、その貧困は連鎖します。僕はそれがとてつもなく怖いのです。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080617#p1

 ワーキングプアネットカフェ難民といった貧困層に対し、主に新聞の投書欄などで、「社会制度が悪いというが、そもそもは当人たちの努力が足りなかった結果だ」と切り捨てている世代があります。偏見に基づいて表現すれば、それは、「今よりは貧しい社会だったけれど、とりあえずは仕事があり、苦労を厭わずまじめに働いてさえいれば、贅沢ではなくとも生きてはいけた」という時代のお話しだと思います。

 正直、僕も少し前まで、少なからず「貧困層に甘んじているのは、総じて当人たちの責任」といった印象があったことは確かです。実際に、努力が足りなかったという人もいるかもしれません。しかし「効率化」のはざまで、高い人件費のために正職員が削られ、使い捨てのように派遣社員をまわすというこの社会で、果たして貧しいままであるのは、当人たちのせいだけなのでしょうか。

 そして、確実に貧困の連鎖が起きているのです。社会制度のはざまで、弱者という名の強者が、うまいこと様々な補助を受けてそれなりの生活を受けている一方で、マジメに働く意志や教育を受けようという希望がありながら「健康で文化的な最低限度」に満たない生活を強いられるケースが多々あると思います。

 例えば、教育を受けるという機会が、両親の経済力にほぼ依存してしまうことになれば、サイクルがそこで閉じてしまいます。高等教育を受けられ、資本主義社会の資本を担うことのできる人間が、その子をまた学校に入れるという階級の形成。貧困のサイクルから、例えば教育という方法でステップアップする可能性がなくなれば、その階級は確立し、完全な階級としての隔絶が生まれ、貧困のサイクルから抜け出せなくなれば、世襲の階級となり、子が生まれた時点で、本人の能力を無視して階級が決定されてしまいます。これは非常に恐ろしいことだと思うのです。

 貧困による教育の不平等や、非正規職員を使い捨てにするような今の日本の現状は、まさにカースト制のように貧困を世襲のものにしてしまうでしょう。国は「日本の景気は上向いている」というけれども、富の偏在は貧困層の固定化をすすめ、治安を恐ろしく悪化させます。秋葉原の凶行は決して許されるものではないけれども、その凶行の動機に共感を寄せる人間が少なくないということの恐ろしさを考えなくてはなりません。

 また、医療や福祉というのも、国が決定した報酬の中で動かなければならない不自由なものであり、どうしても不採算になる部門もあります。また、それ自体が何か利益を生むといった産業でもありません。少なくない経済学者が、医療が国の決定した保険点数でしか事実上収入を得られないという根本的なことを無視して、その採算性を論じているような気がします。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081213#p1

 近年は公的な医療機関にも独立採算が求められている。しかし、そもそも医療というのは国が決めた保険点数に基づいて収入が決まってしまうという歪んだ経済構造の中におかれている。通常の産業だったら、コストに基づいて商品価値を自由に設定できるのであろうけれども、保険点数というのは、必ずしもコストを反映していない。さらには、やればやるほど赤字になることは目に見えながら、時間外診療などにも対応することを求められる。かつては、公的な機関には公的な補助がそれなりに支払われていたから、そうした社会的正義に基づいた義務にも答えていけた。しかし、独立採算と言われてしまうと、正直かなり厳しいのではないか。そうなると、不採算部門を閉めるという選択は当然のように思える。本当にそれでいいのか、我々は選択しなければならない。

 お金の話ということに対して、日本人は概して「はしたないもの」と考え、あまり真剣に向き合ってこようとはしなかったのではないでしょうか。でも、「カネ」は大事。こんな時勢だからこそ、より感じ入ったのかも知れませんが、非常に平易な文章でわかりやすく書かれたこの本を是非みなさんに読んで欲しいと思います。平成二十年の締めくくりに出会った良書です。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20081228#p1

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

 とりとめもなくだらだらと、なんだか暗い話を綴ってしまいましたが、個人的には、今年はいろんなことに区切りをつけて大きく変わっていく一年にしたいと思っています。なんだかんだ言いながら、僕はまだまだいろんなものに守られています。そうした愛に深く感謝し、できうるならばその愛をみなさんにお返ししながら、僕が僕として生きる道を見つけていきます。齢三十も超えていつまでモラトリアムなのかという感じですけれども。
 昨年もたくさんのアクセスをありがとうございました(そういえば去年はサイト十周年という年でもありました)。今年もよろしくお願い致します。