満床とか関係無い

 例えば、腹痛の女の子の診察を始めた途端に、病棟から心肺停止のコール、数分の時間差で二件。あるいは、切創の縫合をしようとして麻酔を打ったところで心肺停止の患者の搬入。当直病院に到着したと同時に複数の病棟から心肺停止のコールが入ったこともあったな。
 腹痛の子のケースでは、一応バイタルサインも問題無く、自力歩行可能で腹痛自制内ってことで、付き添っていた父親に、「病棟で急変があったのですみませんがお待ち下さい」と一言告げた後で病棟へダッシュ、そこへもう一件の心停止の連絡。そちらは既に意識のないまま人工呼吸器が継がれた状態で、家族にも十分な説明が行っているとのことだったので、呼吸器を切らずにそのままにしておいてもらって、もう一人の対応へ。そちらも重症の患者で急変の可能性などは十分に説明してあったとのことだけれども、蘇生は希望するということだった。希望すると言っても正直蘇生の可能性はほとんどない状態だった。一応挿管はして看護師にバッグをもんでもらい、強心剤投与と心臓マッサージ。家族を呼んでもらい、状態の説明を行った後、蘇生を中止して永眠を告げる。
 その後の処置を看護師にはじめてもらった後、別の病棟のもうお一方の家族も呼んで頂き、その合間に救急外来へ戻る。どんなに事情を説明しても、こうして待たせることに怒り出す患者さんというのもたまにいるのが心折れるところですが、今回の親子はきちんと理解してくださる方だったので救われた。問診と触診の後、整腸剤の処方で帰宅して頂く。
 その後、人工呼吸器の方の病室へ行き、家族へ状態説明し、スイッチを切った後の呼吸停止を確認。永眠を告げ、死後の処置を看護師にお願いする。先ほどの病棟へ戻り、死亡診断書を書いた後、霊安室へ移動しお見送り。その後もう一枚の死亡診断書を書き、まだ線香の匂いが残る霊安室でもうお一方もお見送りする。
 切創の縫合をすませる前に心肺停止患者が搬入されたケースでは、縫合処置が半端なところで止まってしまったために、蘇生処置がある程度落ち着いたところで患者さんのところに戻ると、傷からかなり血が流れてしまっていた。ただ、この時仕事をしていた地域では、心肺停止のようなケースの行き先が決まらない恐れがあることを十分に承知していたので、切創の処置を理由には断り難かったのだ。傷自体はそれほど大きくなかったので、どうにか救急車が来る前に処置を終わらせたかったのだけれども、そんな時に限ってあっという間に搬送されてきて、そちらの処置を始めないわけにも行かず、処置中の患者さんに謝って中断したのだ。
 中規模の病院では、たいした設備も人員もないまま救急告示しつつ、当直医が一人ということは珍しくない。前述いた以外にも、病棟やら外来のあちこちで同じような時間にいろんなことがおきてしまって困ることは多々ある。本来、入院患者のために当直医がおかれている。実態はさておき、当直は夜勤では無いので、本来ならばほとんど業務は無く、不測の事態に対応するというためのもののはずなのだ。
 中規模とは言え、数十から二百近い入院患者を抱えていれば、いつ何事が起こってもおかしくない。自宅にいられない人が入院しているわけだから。それに加え、時間外の外来対応も求められれば、前述のように同時に対応し難い緊急の事態が発生することは必然とも言える。どの病院でも応援がすぐ呼べるとは限らない。
 救急受け入れるのに満床とか関係ないだろ、という声。ごもっともです。僕が主張するのは逆の意味でですけれども。いくらベッドが開いていたからと言って、受け入れられないものは受け入れられない。
 医師の多くはバイトであちこちの病院の当直へ出かけている。お金のためという側面は確かにあるけれど、僕の場合は自由意志で働いているわけではなく、医局が受けた依頼が、シフト表に割り振られる義務だ。入院病床を持つ病院は常に当直医をおかなくてはならないけれども、常勤医が少ない病院では当直医を確保するのが非常に難しいのだ。
 そんな手薄な状態ではなく交代性にして、夜勤医を十分におけばいいではないかということもよく言われるけれど、たった一人の当直医の確保すら難しい病院が、どうやって交代性を敷けばいいのか。そうして人材を確保できない小〜中規模の開業医がベッドを持つことをやめ、時間外診療をやめたりすれば、それはそれで批判される。命をあずかる医療に携わる身として、九時五時きっかりの仕事ですむとは思っていないし、「ある程度の」自己犠牲の精神はあるけれども、自己犠牲の精神だけに依存し、批判し、ムチを振るって救急医療制度を維持しようと思ってもそれは難しい。
 他の産業と異なり、医療や福祉という分野は、たくさんのお金を必要とし、そして、特になんらかの利益をうむ訳ではない。だから、我々は選択をしなくてはいけない。今後も世界一の医療水準を維持し、高福祉社会を求めていくのであれば、税金なり利用料なり、相応の負担をしていかなくてはいけない。どうあがいてもタダでは享受できないのだ。
 無論、正しい使われ方をすることが前提だけれども、増税というのは弱い者いじめなどでは決してない。むしろ、社会的弱者を救済し、たとえば健康保険下の医療のようなフリーアクセス・平等な医療を行うためには、税金のような徴収の仕方を行っていくしかない。税金などに財源を求めず、医療費や福祉施設の利用料の個人負担という方向へ行くのだとすれば、それこそ弱者は真っ先に切り捨てられるのだし、会社の利益になるようにしか存在し得ない民間の医療保険に依存するのも、結局は経済的強者しか救われない結果になるのだ。
 近年は公的な医療機関にも独立採算が求められている。しかし、そもそも医療というのは国が決めた保険点数に基づいて収入が決まってしまうという歪んだ経済構造の中におかれている。通常の産業だったら、コストに基づいて商品価値を自由に設定できるのであろうけれども、保険点数というのは、必ずしもコストを反映していない。さらには、やればやるほど赤字になることは目に見えながら、時間外診療などにも対応することを求められる。かつては、公的な機関には公的な補助がそれなりに支払われていたから、そうした社会的正義に基づいた義務にも答えていけた。しかし、独立採算と言われてしまうと、正直かなり厳しいのではないか。そうなると、不採算部門を閉めるという選択は当然のように思える。本当にそれでいいのか、我々は選択しなければならない。