国政選挙

 衆院選が近づいています。僕は恐らく期日前投票に行きます。

日本版ボートマッチ―読売新聞

http://vote.yomiuri.co.jp/
 いくつかの新聞社のサイトなどで、ボートマッチができます。選択枝が不十分な気もするので、これだけで支持政党が選べるとは思いませんが、まあ、自分の気付かなかったことについて、何か再発見させてくれるかも知れません。僕の場合は、このボートマッチの時点で、政党の公約に一致する項目と不一致の項目が均衡してしまうような政党ばっかりになってしまいます。また、どんなに一致項目が多かったとしても、「これだけは許せない」という政策を掲げられてしまえば、その政党は選べないわけで、そうなると本当にどこに投票したらよいのか分からなくなってしまいます。少なくとも民主党には投票しませんけれども。
 短期的に経済政策が失敗してしまうとか、一時的に税制が迷走するとか、その程度の痛みであれば覚悟しています。このあたりは、今の日本の状態であれば、どの政党がやってもそんなに変わらないのかも知れません。ただし、民主党の公約や、民主党議員の発言にうたわれる政策の中での許せない部分が、まかり間違って法律として成立してしまうことは、取り返しのつかないことに繋がるという恐怖があります。
 その昔、医学連(全日本医学生自治会連合)と喧嘩したときにいろいろ嫌な思いをさせられた某政党にもまあ、政権をとってもらいたいとは思っていませんが、それでも民主党よりはマシな気もしてしまいます(この政党も、本当に政権をとれるだけの力がついてしまえば、また主張やふるまいもまた変わってくるのでしょうけれども)。この政党には、自民党への批判という意味で、一度投票をしたことがありますが、その後、過去のいろんなことが思い出されて、心の底から後悔したので、多分二度と投票しないと思います。医学連とのことがある以前は、そんなに嫌な先入観も無かったんですけれどもね。
 世論では民主党の支持が圧倒的だと報道されていますが、僕の周囲ではその気配が伺えません。マスコミは、いまだ大きな影響力を持っているとは思いますが、すでに僕らが情報を得るための唯一の手段とはなり得ていないし、無批判に信じる対象ではあり得ません。マスコミの行う世論調査というのも、世論のある一部を切り取っているだけでしょうから、どの程度の正確さなのかよくわかりません。特に自民党を支持したいわけでもないのですが、世論調査の仕方なども含めて、マスコミの取り上げ方は、相当に偏向しているなと、改めて感じるのです。
 現在までの政治に不満がある以上、政権交代ということは、恐らくあったほうがいいのだろうと思いますが、まともな対抗勢力がない以上、どうしたらいいのか分からないんですよね。自民党に投票して、現行の体制を承認するというのも癪に触りますし。
 medtoolzさんの、「選挙はくじ引きにすればいい」というエントリが、非常に面白かったです。

選挙はくじ引きにすればいい―レジデント初期研修用資料

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/416

候補者の「努力」が結果に反映される、今の選挙システムというのはまじめすぎるような気がする。

選挙というものは、もっとうんと馬鹿らしいやりかた、賭け事に近い、偶然に大きく左右されるようなやりかたをしたほうがいいと思う。

具体的には、投票された票については、今までどおり候補者に配分するとして、無効票だとか白票、そもそも投票されなかった票を一つにまとめて、候補者全員で「くじ引き」を行って、勝った人がそれを総取りできるようにする。

選挙に対する意識の高い、投票率の高い地域なら、このやりかたはなんの影響ももたらさないけれど、投票率が低い、そのくせ結束した小さな「地盤」を持つ候補者が、ベテランの顔をして当選を繰り返すような地域なら、たぶん当選者の顔ぶれは毎回変わる。

その地域で何度も当選しているベテランは、たとえば「飲み会の罰ゲームで立候補させられた大学生」とか、「引退後の楽しみで運試ししている元社長」とか、今までだったらあり得ない、下手すると選挙活動すらしていない人たちを相手に、「くじ引き」で勝負することになる。

ベテランが、ベテランらしくあろうと思ったら、地域の投票率を高めて、なおも自分が当選するように頑張るか、毎回当選するための「努力」を放棄して「運試し」の仲間に加わるか、決断を強いられることになる。

「リーダーに選ばれる」というイベントは、その人にとっての名誉でなく、むしろ災厄でなくてはいけない。

実世界で「リーダー」を任じられた人は、たぶん自ら望んでそうなったというよりも、困難に直面したチームにあって、責任者として、あるいは失敗したときに差し出される「首」として、無理矢理そういう立場に追い込まれたケースのほうが多い。

「リーダーになりたい人が立候補して選ばれる」という、選挙政治のやりかたは、他の業界だと珍しい。

リーダーというものは、たいていの場合、誰かが突然に指名されて、あるいはチームから「あなたしかいない」なんて押し出される形で、半ば嫌々引き受けるものだと思う。今の政治みたいに、候補者リストを眺めて、「こんな人しかいないの?」なんてがっかりするという状況は、やっぱり政治限定で、他の業界で、こういう状態に陥った企業というのは、普通この世からいなくなってしまう。

リーダーに選ばれるということは、本来が「災厄」であって、それは名誉かもしれないけれど、責任が重くのしかかるから、「やりたい」なんてたくさんの人が手を挙げる状況はちょっとあり得ないし、たぶんリーダーは、「やりたい」人に任せるよりも、むしろ「嫌だけれどそうならざるを得ない」誰かを捜してきて、その役割を押しつけるほうが、チームは上手にガバナンスされる。

「本当はリーダーなんてやりたくなかった」という思いが、たぶん正しい判断を導く。「さっさと辞めたい」リーダーは、メンバーの顔色をうかがう理由が存在しないから、チームにとって、最適と思える判断を下す可能性が高くなる。

「その仕事をずっと続けたい」と思うリーダーは、「チームにとって最適」な判断よりも、もしかしたら「仲間受けのいい」判断を優先して、組織の判断を誤ってしまう。世の中が上手く回っているときには、両者の解離は目立たないけれど、困難に直面した状況で、仲間の誰もがいい思いができる判断は、たいていの場合、チームの全滅を招く。

 最後に。選挙と同時に「最高裁判所裁判官国民審査」が行われます。「推定無罪」の無視や、形ばかりの三審制、警察・検察と司法の近さ、冤罪などに対する批判の意志として、少し前から、僕は敢えて全てに×をつけています。これまでに国民審査によって罷免された裁判官はいませんし、審査の間隔を考えると、ほとんどの裁判官は一度だけしか国民審査を受ける必要が無くなるという茶番の面が大きいですが、現行でほぼ唯一裁判所に物申せる機会である以上、僕は明確に意思表示を続けていきます。