僕の時間を

 先月、遅めの夏休みを頂きました。14年ぶりにタイへ旅行に行って来ました。以前訪れたのは深夜特急を読んで海外の長旅に憧れた学生時代。バンコクにはスカイトレインはまだ走っていなかったし、到着空港はドンムアン空港でした。スワンナプームという綺麗な新空港に降り立ち、大きく変わった街をぶらぶらしましたが、僕自身も14年で大きく変わったような変わらないような。確実なのは、旅行の仕方は変わったし、持っている時間も変わったし、待っている仕事も変わったということ。

 とある家庭の事情がひとつのきっかけなのですが、それはおそらくほんのきっかけに過ぎなくて、僕の中では大学医局というところを離れようという気持ちは、少し前にはっきりと固まっていたのです。それと関係するのかどうか、ある大いなる野望を一歩前にすすめるためのきっかけも作りました。それをしたからといって何の保証もないのですが、意思表示というかなんというか。

 待ってくれないいろんなことが身の回りで起こっています。多分ここで、僕の時間を仕事以外の大切なことに使わないと深く後悔すると思うのです。野望の進行は仕事時間の短縮という方向とは矛盾するといえばするんですが、まあ、それはそれとして。いままで人生の大切な決断は、おおむね天の声というか耳元で囁くコビトさんのアドバイスというか、いつもどこからかの目に見えない後押しで勢いで決めてきたのです。そういう決断をするときは、身の回りの景色が急に鮮やかになるのです。そして、そうなったときの決断は大抵正しかった、と信じています。

 僕の時間を返してもらうときがやってきたのかな、と。いろんな呪縛とかしがらみとか思い込みとか強迫観念とかプレッシャーとかいうものから、そろそろ自由になってもいいんじゃないのか。夏休み中に来年度の人事希望の締め切りがあったので、医局から離れたいという希望を書いて提出しておきました。帰国後に人事権の一部を持つ方に、その意思を確認され、現時点では保留にして欲しいということを言われており、まだ不透明ではありますが、意思は固いということを繰り返し伝えて、遺留については前向きな回答はしていません。

 多分その時なんだろうなと僕は根拠無く確信しているのです。根拠のある自信なんていうのはすぐ崩されるので、根拠の無いことっていうのは強いんだよ、と誰かが言っていたのをふと思い出しました。