僕の経験したコピペについて

早稲田大学の理工系におけるコピペ文化について

http://anond.hatelabo.jp/20140314233406

そこで、そのとてつもない量のレポートを量産するため、学生たちは必死にコピペを行う。先輩たちから大量に受け継がれてきた「過去レポ」をもらい、それを切り貼りして組み合わせるのである。切り貼りする手間がないときは、一字一句同じレポートが作られる。写経である。
教授陣はコピペを容認している。学生がコピペを多用するのを知っていているため、私のいたときはレポートはすべて手書きでないと認められなかった。つまり、こういうことだ。どうせ殆どの学生はコピペをするのだから、それをパソコン上でやっては何も身につかないので、せめて手書きで丸写しをさせて覚えさせよう、と。実際に何人かの先生たちはそれを公に口にしていた。写経ならまだ意味があると。こうなると、どうやって大量の過去レポを得るかが重要である。実験の成績は、コミュニケーション能力を測っているともいえる。つまり、どれだけ過去レポを集める能力があるか、だ。

早稲田大学の理工系の非コピペ文化について/電気・情報生命工学科の学生から

http://yamitzky.hatenablog.com/entry/2014/03/15/110939

事情が大学レベル、学部レベル、学科レベル、分野レベル、研究室レベル、班レベルでも様々なので、それを一般化して、「早稲田大学のコピペ文化」みたいな感じにしてほしくない。
(早稲田に限らず)大学機関は、レポート提出はpdfにして、機械的剽窃を防ぐようにして、かつ、実験書への引用を指導して「どんな場合でも不適切引用はダメ」ということを徹底してほしい。

 僕の学生時代というのは、インターネット黎明期であって、自分がレポート提出に必要な事柄のすべてをネットに頼ってデジタルデータで完結するというのはまだ不可能な時代でした。そもそも提出レポートの多くは手書きが義務あるいは推奨されていたように記憶しています。
 僕のいた医学部という世界は、大学を卒業できなかったり国家試験を突破できなかったりすると、なかなか軌道修正が難しいという特殊性もあって、みなそれなりに試験や進級ということには必死でした。他学部が様々な授業を選択して独自のカリキュラムを組んでいく中、教養の一部の授業以外はほぼ必修で、実習も多く、基本的に同級生横一線、ずっと同じような授業を受け、試験を受け、レポートを提出しているという環境です。
 大学によっても学生同士の「情報の共有」に関しては差があるとは思いますが、僕らの大学では、先輩から脈々と授業やレポート用の資料が受け継がれ、各講義毎に「資料班」を結成し、責任者が指揮をとって授業に出て、付随資料を添付、過去問や過去レポートの収集と解説の付与、担当教官への質問といったことを行い、B4版の紙に印刷し、最低限その資料を読みこめば試験が突破できる(と思われる)、「資料」を作成していました。資料を使うも使わないももちろん自由でしたが、基本的にはみな資料は使っていて、その上に独自の勉強を重ねるか、資料のみで試験に突入するかは人それぞれでした。資料がつくられることが確定しているので、出席のうるさくない授業には一切でなくてもなんとかなりましたし、誰かにノートを借りるのに苦労をするということも無く、各学年最低限度の情報は、その資料によって一律に担保されていました。
 資料など無くても独自に勉強して試験を突破するであろう層の人々も、少なくとも僕の経験した範囲においてはこうした互助作業に非常に協力的でした。同じ資格試験を受け、同じような医療現場でチーム医療に従事するという意味では、最低限知っていなくてはならないことを共有し、みんな横並びで仲良く試験を突破しましょうという発想は、僕は間違っていないと思いますが、こうした学習法を「ずるしている」と判断する人もおそらく少なからずいるのだろうし、実際教授陣も、こうした動きに好意的な方々も存在する一方、毛嫌いしている方もおられました。資料を毛嫌いしている教授には資料を見つからないようにはするのですが、それを見つけ出すことを喜びとしている教授がいたり、自主的に提出するように求める教授もいて、「試験には資料で触れていないところをだしてやる」と、すさまじいマニアックな試験を出された記憶もあります。
 さて、ご批判は承知の上ですが、そうした横並びの文化の中で、正直僕もレポートなど、少なからずコピペに頼った部分はあります。前述のように、コピペのための元レポートは先輩から後輩へ脈々と受け継がれてきていましたし、僕も後輩へ受け継ぎました。ただ、その中で、いかに丸写しにはしないか、元レポートを貸してくれた人に迷惑をかけないようにするかというのが肝でありました。過去のレポートならまだしも、誰か同級生がレポートをみせてくれた場合など、コピペ元と同じものを提出したらそれは大きな迷惑がかかるわけで、そうした迷惑をかけないためにはできるだけ多くのレポートや資料を集めることが肝要でした。できるだけ多くのレポートや資料を集めることで、それをベースに自分なりにリライトするのが仁義であり、しきたりだったのです。単なる事実のまとめのような、独自の観点が入り込む余地の無いレポートであれば、内容が似通うのは当たり前であり、その中で、自分が噛み砕いた、自分の言葉で書くということが肝でした。
 何かの講義で、僕の書いたレポートより、僕のレポートを持っていてそれこそ半ばコピペした同級生のレポートの方が高評価だったことがあります。貸した相手が相当噛み砕いたり、別レポートや資料の内容を混ぜ込んだならまだしも、そうでなければこれは仁義にもとる行為とされました。
 初めて英語論文を書くときの入り口も、例えば自分が扱おうとするタンパクに関する論文をなるべくたくさん集め、それをコピペするというような方法論で、それは指導教官からはっきりとそう言われました。無論、先述のような仁義が重要であること、引用するときはしっかり引用元を明示するということは当然のこととされてはいましたが。
 例えばあるタンパクに関する背景などに関する背景・導入(introduction)は、誰が書いても変わりようが無く、今までにまとめられている見解を「コピペする」ことは当然の行為で、論文というものを理解していない人は、こうした部分での「引用」と悪質な「コピペ」を混同しているのではないか、とも思います。これは今までのあらすじであり、前ふりであるので、誰が書いてもそんなにかわりがありません。「〇〇らは××年にこう主張した」みたいな文章であり、基本「コピペ」で構成されているとも言えます。STAP細胞に関する疑惑に関しては、細かな事実関係がはっきりするまでコメントのしようが無いと思っていました。現時点で明らかになっている情報では、信憑性がかなり疑わしいのは確かだとは思います。ただ、マスコミや世論のバッシングは、新しい見解に対して、科学的な追試でその確からしさを検証するという過程についての理解が無いものが多かったのも確かです。STAP細胞に関して報道されているようなことが事実であれば、ああしたデータの切り貼り、引用も明示せず、一言一句ほとんど変わらない形で延々続くコピペに関しては、もちろん論文としてふさわしくは無いだろうとは思います。しかし、自分たち独自の材料・手法(material and method)や考察(discussion)がコピペならオリジナリティーもクソも無いわけだが、背景(introduction)や、材料だけが違うすでに確立された手法(method)部分ではコピペにもなるというのは先にも述べた如くです。完全なコピペにならないように、なるべく多くの論文に基づき、引用を明示した上で、それら論文で共通に述べられる部分、ある論文に独自の部分を分けて理解し、自分なりに噛み砕いた文章で再構成するというのが科学論文における仁義ではあります。
 英語に関しては日本語よりは不自由なためなかなか自分なりの言葉に噛み砕けません。そういった意味で文章単位でのコピペは起こりやすいのではないかと思います。引用した文と、自分の文章と、新たな事実と、そうしたことを並べた文章をネイティブの英文校正に出してなんとなく最終的にまとまるというのが僕の英語力では限界です。いろんな引用とか、ネイティブチェックの際に誤解を受けないようにとなるべく単純な文法で書いた独自の英文とか、そうした味の異なる様々な英語が散りばめられた状態のものを、最終的にはお金を払って校正してもらうのです。だからおそらく僕の論文は、最終的に英文校正者の味がついた文章になっているのだと思います。余談ですが、外国語文章の表現力云々ということに関しては、部下にドイツ語に味が無いといって書きなおさせる財前教授(白い巨塔)を思い出してしまいます。語学に堪能な人はそうした文章の機微や味に気付けるのだと思いますが、僕は正直よくわかりません。
 スタンフォード大学を卒業後に日本の医学部に入ってきたような、日常生活ではネイティブ並みに英語を使える知人も、論文はネイティブチェックを受けると言っていました。引用や剽窃では、その個人が使う文章の味とかクセが異なるのだから、見抜けないのは指導者の怠慢とかいう主張をどこかで見かけましたが、個人による英語の文章の味とかクセ、といったことまで表現できる日本の科学者ってそんなにいないのではないかと思っています。
 昔みたいに紙ベースで論文検索しなくても、今はオンラインジャーナルとか、紙媒体の雑誌でもpdfでの検索とか容易になってきていて、そういう意味ではコピペも容易になっています。最近多くの科学雑誌では、投稿論文のコピペ率を判別するソフトウェアを用いています。既知の共通の事実であり、引用やむなしとは言っても、あまりにもその「コピペ率」が高ければ査読以前にはじかれるというのが昨今の現状。例外はあるのかも知れませんが。
 勢いにまかせてtweetした連投が読みにくいので、一応ここにざっとまとめておいておくことにしました。大学時代の講義の話とか、ちょっとニュアンスの違うことも混ぜてしまいましたが、僕の場合は、そうした流れもくんだ上での「コピペ」環境であったということです。