「お医者さんごっこ」-0419-

 医師国家試験を終えて「受験生」という肩書きを失い、学位記授与と引き替えに、「学生」という肩書きをも奪われて、晴れて無所属という立場に置かれた時、それでも僕らは確実に僕らであり続けたいと望むのです。他の多くの社会が、4月から始まる年度体制で動く中、その時の流れから取り残されたかのような微妙な時間、人によっては合格見込みで早くから病院勤務を始めたのでしょうけれど、合格発表待ちの、医師免許待ちの、とにかくその少しの時間に、僕らが僕らであることについて、何か少しでも知り得たのでしょうか。

 時間が止まっているのはほんのわずかの間の事で、すぐに僕らは怒濤の流れに飛び込むことになるのです。医学生という理由だけで、医学を学ぶために、環境も人間も、全て本物を用意されていた僕らは、時間が動くその刹那、さらなる義務と責任を負って、本物だらけの空間に、一番ひよっこながらも確実に本物として躍り出るのです。そのことに気付かなければ、すぐに僕らは濁流に呑まれてしまうのでしょう。お医者さんごっこは既に終わっているのです。

 五月病なんて感じる間もなく時は流れ、ハードワークの中で、そろそろぶっ倒れるかなと思いながらも、人間意外と丈夫なことに気付いてしまったりするのです。不眠不休で知識も曖昧な研修医が診療にあたれば、それはそれだけで医療ミスの原因になりそうな気もするし、労働条件として劣悪なことは確かなのだから、医者自身のQOL(生活の質)を論ずることも間違いではないのでしょう。

 ただそこは人間対人間の関係で、同じことを同じ様にしてくれるならば誰でもいいということではなくて、患者さんは、信頼した人間に身を任せたいと思う訳なのです。そして患者さんは、平日の9時〜5時を選んで体調を崩すわけでは無いのです。アメリカなどでは進んでいるという医師の勤務三交代制というのも一つの合理的な考え方ですが、例えば、子にとって親が唯一その人であるように、信頼した主治医が、常に患者さんのもとにかけつけるような状態というのも、人間学的には正常だと思うのです。

 当然それを徹底すれば、医者は自分の生活に犠牲を強いることになるし、ハードワークになるんですが、それはある程度分かった上で、僕らはこの職業を選んだはずなのです。聖職とも言われる所以は、決してその職業人が偉いとか、特権を持つとかいうことでは無く、ある程度、自己犠牲ということを考えねば貫徹できない職業だということなのだそうです。

 まだろくに仕事も出来ない、危なっかしい僕ですが、それでも朝に夕に患者さんの愁訴に耳を傾けることができるのです。病棟では明らかに、手術も検査も採血も、一番下手くそな新人の僕に、それでも、「先生がいてくれて良かったです」というような一言をかけてくれる人がいたときに、なんだかいろんなことから救われたような気分になるのです。「患者さんの側からすれば、ベテランの医者が全てということでは無くて、若い医者にしか話せないようなこともあるし、そう言う意味では、病棟で君にしかこなせない役割もあるはずだ」とオーベン(指導医)が囁くのでした。