「私はお腹が痛いです」-0462-

 言葉が通じない患者、というのは割と良く巡り会うものです。

 それはただただ泣き叫ぶ乳幼児であったり、訛りがひどすぎる相手であったり、消え入るような声しか出ない老婆であったり、もしくは日本語以外を母国語とする人々なのです。

 いつものように真夜中に呼び出されて、「それでは、僕が診ます」と、当直医から引き継いだ患者さんは、北京語以外の言語をほとんど解さないのでした。県医師会の編集している、外国人診察用の会話集を外来から持ってきてもらったけれど、それに印刷された中国語表記には、親切なことに発音記号もルビも付しておらず、さらには、痒いところにまったく手が届かないような単語がちらほらと載っているだけであって、あまり意味をなさないのでした。

 腸閉塞の状態だから、絶食して点滴治療を開始します、という意味の北京語を、先のガイドブックから抜き出して書いた「入院時診療計画書」が精一杯の誠意。あとは、言葉の分かる人を介して、なんとかイレウス管の説明をし、鼻から喉を通り、胃、そして十二指腸へ、決して楽ではない処置を施したのです。

 それを表現する言葉を持っていない乳幼児ではなく、それを表現する確かな言葉を持っているにも関わらず、それを理解する人を目の前においていない人のストレスというのは相当なものだと思います。誰だか忘れたけれど、母国語ではない言葉で会話するとき、自分の精神年齢を少し逆行させるというような表現をした人がいました。全く言葉を知らなければ、表現方法を乳児くらいのレベルにおとさなくてはならないかも知れません。

 日本人は英語が苦手だというけれど、英語と日本語以外を母国語とする人と対峙するとき、お互いに英語を少しでも解するとほっとするのです。そして、お互いにある程度精神年齢を落とした状態で会話するというフェアな状態は、片言同士でもそれなりに通じ合えた感じにならせてくれるようです。

 僕が今回であった台湾人も、以前お腹の痛そうな子供を連れてやって来たブラジル人も、「英語話せますか」ときくと、即座に「ノー」と言うのでした。英語圏というものを、おそらくアメリカの人々は過剰評価していると思います。英語は国際語だとかいうけれど、英語を話せても中国大陸のほとんどの人間とは会話できないし、南米の人々ともおそらく通じ合えないのです。

 医療行為の多くは、かなりの苦痛を強いるもので、その目的が分かっていなければきっと耐え難いと思うのです。そういう意味で、子供が暴れるのは当然の行為である気もするし、理解されない状態でのイレウス管挿入なんて、拷問以外の何物でもないとも思ったのです。

 実は、僕、外国語も含めた言葉というものは、昔からかなり好きで、医学を志す以前は、漠然と外国語学、あるいは言語学というものを学びたいと思っていたのですが、とりあえず今は、理論としてのそれはおいておいて、僕の医療のための道具として、日本語以外も巧みに扱ってみたいと思うのでした。