ホテル・ルワンダ

 昨日の公開初日、2回目を立ち見で鑑賞してきました。

 虐殺の事実に関して、もちろんメッセージ性を含んではいるのですが、直接的にそれを描くのではなく、あくまで一ホテルマンの視点で描くというつくり方に非常に好感を持ちました。ポール・ルセサバギナという人間の視点に絞ったということで、僕らもだだっぴろい舞台を眺めるということではなく、目の前のことだけを自然にみる事ができたような気がします。

 アフリカの民族問題を知るとか、その悲惨さに手を貸すことを訴えかけるというよりもまず、ただ、そういう事実を知るということでいいのではないか、と思います。これは昨日も書きましたが、「ルワンダのことばかりに目を向けて、ダルフールはどうなんだ?」とか、もっと言えばアフリカに限らず、世界各地で起こっている虐殺全てに関してどうなんだ、ということは、この映画を鑑賞するためにはあまり関係ないことで、しかし、全てつながっているのだということです。

 日本で上映を求めた一連の運動も、「アフリカの悲惨さを日本に!」というものではなくて、「この素晴らしい映画を日本でも」ということだけであり、それ以上でもそれ以下でもないと思っています。もしかしたら、裏には何かあるかも知れませんけれど、僕にとっては、これはただの映画の上映運動だととらえられました。そして、僕らは教育的映画を無理矢理押し付けられるのではなく、良質な映画のひとつとして、「ホテル・ルワンダ」を鑑賞したのです。そのテーマが今まさに虐殺が続いているといわれるダルフールではなくて、ルワンダ大虐殺だった、というだけの話。

 僕は少なくとも、この映画で、ルワンダの虐殺の事実を、より鮮明に記憶しました。そして、世界の他の地域でも同様の問題を抱えていることを知っています。そして、そのすべてに手を差し伸べられないことをわかっていますが、虐殺という愚かな行為を二度とおこしてはならない、というのはわざわざ宣言しなくとも、当然のことと思っています。「二度とおこさない? だって今まさにここでもあそこでも起こっているじゃないか?」というのは確かです。先進国が、自分の興味の無い国からは目を背け、「もう二度と虐殺を繰り返さない」という発言も虚しいのも事実です。ただ、「ホテル・ルワンダ」公開の盛り上がりに対して、この論法を用いて批判することに、何の意味があるのでしょうか。

 僕は再三、慈善というものの難しさを思い、多くの人間の善行を「偽善」と表現してきました。この偽善は、決して悪い意味では無いです。僕らは、相当なエゴイズムの中に生きていて、自分の幸せを保証した上で他人に手を差し伸べていると思います。それも、そうやって手を差し伸べるという善行で、自分がすがすがしい気持ちになる喜びを得るという見返りを含めた上でのことがほとんどだと思います。真に自分のすべてをうち捨てて他人のためにという神の領域、真の慈善の領域にはなかなか達しないと思うのです。また、このエゴイズムの範囲は、自分から、自分の愛するもの、家族や親類、友人、地域の仲間、同じ国民…といったように、自分に近いところから、余裕に応じてだんだんに広がっていくのだと思います。僕らは、自分の生活レベルを落としてアフリカの1000人を救おうとあまり考えていないのです。かといって、これがそのまま罪かと言われても、そうではないとも思うのです。映画の中でも、アフリカ人であることが国際社会の関心をひけないということに関する描写が随所にありました(ネタバレにはなっていないと思います)。全くその通りで、国際社会は恥じるべきです。しかし、神では無い僕らは、エゴイズムからは逃れられないとも思います。そのエゴイズムの中でなお、どこまで恥じることができるかというが重要だと思います。映画の中でも、当初ポールが守りたかったのは家族であり、それ以外の虐殺される人々へは目が向きませんでした。

 例えば僕も、自分が呑んだり遊んだりするのを我慢して、その分のお金を充てれば、衣食住が与えられる貧しい子供たちの存在を知ってはいるのです。かといって、酒を我慢してまで寄付しようとは思わないという事実。けれど、自分の生活レベルに影響しない範囲の寄付や援助をたまにすると気持ちがいいなと思う程度の人間です。僕は今まで、気持ち的なものも含めて、見返りを求めているような善行しかしていないし、それを乱暴な表現かも知れませんが、僕は「偽善」と表現していたのです。そして、この世のほとんどの善行は、この基準だと「偽善」ではないのかな、と思っています。繰り返すと、この「偽善」に僕は悪い感情をこめていません。善であれば、いいのではないか、と思うのです。もっとも、僕は自分自身が「これは善いことなんだ! みんなも!」という行為が苦手なので、募金もボランティアも「こういう運動をしてるよ!」と大々的にアピールすることはほとんどなく、ひっそりとしています。

 少し前、「ホワイトバンド」についていろいろ論争がありました。最後のほうでは、お金の使い方への不満が飛び交いましたが、もともとは、そのアピールの仕方を嫌う人たちの発言が目立ったようです。これは前述のように、僕も自分自身がそういう表現をするのは苦手でしたが、そういう行為をする人々に関しての嫌悪はありませんでした。かといって、別段賞賛も無かったですけれど。ただ、外にアピールする運動というのは必要な部分はあります。さまざまな寄付行為も、本当はその時間を別の労働にあてて、その分のお金を使ったほうが効率がよいわけですが、街頭で寄付を呼びかけるという、そのアピール自体が重要な場合もあるのです。ホワイトバンドは、もともと寄付を目的とはしておらず、アピールに重きをおいていたわけなので、そういう意味では正しいやり方でした。これはあくまで僕の個人的感想ですが、今回、観て楽しめる映画という方法で、ある問題を意識づけることが自然にできたのは、直接的なアピールよりは、よほどうまいやりかただと思ったのです。

 話が相当脱線しました。今回、この映画の上映運動が、「アフリカを救おう!」みたいな運動としてとらえられている感があるのに違和感があります。すなわち、「ホテル・ルワンダ」上映運動自体が、ホワイトバンド運動のような捕らえ方をされているような気がするのです。そして、それを批判したようなやり方で、上映運動を冷ややかにみている人がいるという気がしたのです。なんだろう。僕はまったく上映運動には関わっていないのだけれど(署名したかどうかも忘れました)、なんとなくこの映画には強く惹かれるものがあったのと、ちょっと的をはずした批判に対して違和感を感じたのとで、長々とわかったようなわかんないような感想を書いてみました。